昭和41年2月1日 月次祭
「真の道におりながら、真の道を踏まぬこと」教祖の神様の御神誡の中に、そういうお言葉がございます。「真の道におりながら、真の道を踏まぬこと」お互い真の道に御神縁を頂いておるのでございますから、その真の道を習わしてもろうて、その真の道を行じ歩いて行かなければおかげになりませんのですけれど、沢山なお道の信奉者の中に幾人、まあ幾人と言うたら、いわゆるどのくらい真の道を踏んで行きよるだろうかということです。
第一真の道を教えられてない。ね。本当の道を教えて、教えられていない。だから、習たようにしよるけれども、おかげにならんと言う人が沢山あるということ。習うたようにして行けば必ずそこには、真の道を踏んで行く者にお許し下さるところの信心の喜びと同時に、それにはかげのようにおかげが伴うてこなければならん。
金光様のご信心はそこに一つの実証的なおかげというものが、いつも伴うておらなければ、そこで私は、いつも私どもがです、色々な場合に、本当なものではない自分というものを見極めて行かなければならん。
先日私はある方と問答させて頂いた。熱心に椛目の信心に帰依をしてお参りをしておったんですけれど、最近参って見えないと思ったら、そういう一つの迷いが起こっとりました。起こってるらしい。
だいたいその方は、あの生長の家のまあ新鋭とまではいかんけれども、書物も読んで頭の冴えた方らしい。方らしいじゃない、方なんです。で椛目の信心はどうも何とかって言いました。私すぐ忘れます。何か英語で仰ったけれど忘れました。何と言ったけ。えらいそのいわば、悪い言葉なんですよ。
とにかく何て言うんですかね。何とかですよね、高橋さんあの。「叩かれてから快感を感じる」と言う言葉があるんですよね。なんか淫乱的なとかっち言うた。普通ではもう気持ちの良いところじゃない。叩かれなければ、その何かサデストでした。確かそれでした。そういう言葉なんですよ。
なるほど椛目にはですね。言われて見れば、そのう「難儀の中に喜べばおかげ」って言うんですからね。どんなに苦しい中にあっても、その苦しい中に喜びは分かれておる。その苦しい中に喜びを分かれただけではないです。椛目の場合は。ところがそういうのがあるんですねやはり。このやはり、(微妙な宗教?)と宗教と言うてはならんですけれども、その趣旨は立派でありましても、それを継承しておる者の間違いからです、あるキリストの牧師さんが例が出たんですね。
もういつも自分は貧乏しとっていいと言うわけです。ある人がその、「お金をお供えをする」ちゅうたら、それをみな「自分にはもったいないからいらん」と言うてその、いつも貧乏しておる事の中に喜びを感じておるというわけなのです。椛目の場合はそげな事なかですもんね。「はあ、それはそれで、どうぞ」ちゅうて頂く。そこに椛目の違いがあるのですよ。
現在のその苦しい中にです、喜びを分かれと言うのはです、ね、苦しい中に神様の思いが分かるというのです。苦しいことは苦しいのですよやはり、痛い事は痛いんです。ね。けれどその痛い中に、快感に、(んならならん時もないとするかも?)しれんですよ。ところがね、やはりあの信仰の中には、そういう人達があるということですよね。
そして一生、いわゆる貧乏の淵から這い上がることができないと言う人達があるのです。ね。まだそこに快感を覚えとりゃまだいいんですけどですね。その快感も感じられないに「苦しい苦しい」で終わっておる人達があるということです。それはやはり、真の道におりながら、真の道を踏まぬからであり、いや、真の道を教えないからだと私は思うのです。ね。
皆さんそういうところを一つ、どうぞ間違えんように頂いて頂きたいと思うのです。例えば、私どもその話を聞きよりましたら、なるほど立派な節だなと思たんです。「人間神の子の自覚」ということがでけたらです、もうその「自分は立派なのだ」いつも「自分は立派なのだ。間違いないんだ」といつも思とけとこういうわけなんです。
ところが椛目の場合はそうじゃない。反対なんです。ね。いつも「これで済んだとは思いません」という生き方なんです。ね。その「私のような者が」とその反対なんです。いうなら問題に直面するたんびんに、いよいよ自分が本当なもんじゃない事を悟らせてもらうと言うて、そこに悟って行くのです。お道の信、椛目の信心は。
ですからそういう考え方ではです、いつまで経ってもおかげを受けられんとこういうのです。そういう考えは間違いです。神の子という、神の子の自覚ができたらもう自分は完、いわゆるその完全なものだと、いわゆる全知全能の神ということを言われる。全知全能の神のブンシでも、やはり全知全能の私であるという自覚に立てる。
もうそれから病気もよくなりゃ、その金持ちもできるんだと。まあえらいその、まあ簡単な事で病気が治ったり、金持ちになれたりする、まあ事を説いてあるらしいんです。ね。だから、それは結構ですけれどもです、果たして、いうならその主えいの方達が、無病息災、億万長者の徳をそれぞれが受けておられるかと言うと、そうではないところにです、ね、私はこれを主催されるとこの谷口雅春と言う先生の信心というものはそんなもんじゃなかろうと。
表現は違いようであるけれども、・・・?は私のとこと同じだ。ひょっとすれば私の言うところよりも少しは、少し低いかもそらしれんというようなことすら私考えた。私の言う事は本当の事なんだ。間違いのない事なんだ。ただ私自身は本物じゃないけれども。いつまでも難儀をしておるということの中にです、ほんとに、もうほんとに有り難うしてたまらんような喜びを感じておりますというようなら、ね、そしてまだやはり、難儀をしてるとするならば、その喜びはほんなもんではないと悟らないかん。
それがその人が言うところの、何とか依存ということになるでしょう。ね。信心によってそういうような事を体得して行ったんでは、つまらんのですよ。お道の信心は、そこのところが分からしてもらえる。ね。
昨日、昨日の晩です。昨日、一昨日です。昨日の晩の御理解時、御祈念の時もそうでした。朝の御祈念は皆さんもご承知のように、ここはもう一分でも一厘でも間違いのない中私、5時の御祈念に祝詞座に就かせて頂くんです。ね。これはもう神様を対象としておるわけです。もう皆が一人でも参って来ておらんでも、もう皆のことなんか念頭にないぐらいです。
もう神様に私の、いわゆる全身全霊を打ち向こうておるですよ。どんなに頭ガンガンこうほてるように熱があってです。昨日の時なんかはそうでした。もうほてるように熱い、熱いぐらいに熱があるんです。(石火で手を打っておるようです。?)(20分になる頃?)出て来る間は、頭をかかえておるです。けれどもひとたび5時にここが、障子がもうあかったと同時に、私の体がシャンと( ? )
それはもう有り難い、それはあの私晩年の松本幸四郎のお芝居を見せて頂いたんですけれども、80に近いおじいさんでした。花道の揚げ幕のところまで来る時は、両方から弟子がこうやって支えて来よります。楽屋におる時は布団に寄りかかってる。けれども、揚幕の揚がった途端にシャンと自分の姿勢というものを正してから、花道をそれこそ、見事な足取りでですね、舞台にいつも出て来てから、若い者に負けない。あの当時「連獅子」と言えばもうたいへんその、体をあの振る舞われる踊りなんですけれども、それをやっぱり踊りこなしております。
花道を降りてから揚幕が下がった途端にパタッと弱ると言うほどらしいです。そのくらいに私はあるんです。そのくらいに神様に私の心が打ち向けられておるのです。夜ともなるとまた私の雰囲気が違ってまいります。もうほんとにどこまでも家庭的な、ね、雰囲気、もう家庭中が椛目の信者全部が一つの大きな家庭なのだ。
その集うて来ん人達が全部揃うて、あれも揃とらんまだあの人も来てないね。全部の人達を待ってからと言うような感じで、夜の御祈念をいつも仕えられます。もうその時、時間もだいぶ過ぎておりましたけれども、別に誰を待っておるというわけではなかったけれども、誰が揃い彼が揃い、祭員の方達がぞろぞろ揃いましたから、それから私出させて頂いて御祈念をさして頂いた。
もうほんとに有り難い。ね、皆さんにも体験があるでしょう。お明かりと明々と明けて、今日一日中お使い回し頂いた事を家族中の者が揃うて、夜の御祈念をさして頂くあの雰囲気なのです。「今日も無事に御用に使て頂いて有り難し」と言う、あの有り難い気持ちで御祈念をさして頂いて、天津祝詞にそれから大祓に移らして頂く時でございました。
私の低い声で開いておる大祓と、こっちの高い声であげておる人との違いができた。片一方文句が、そのどちらが合うとって間違えたか知らんけど違っておる。そこでしばらく私待ってその人に合わせて行くつもりで、待っておる間に今まで私が有り難かったこの心の中にです、有り難いものがスーッと消えて無くなってしもうた。
そしてそれとは反対にイライラするようなものが心の中にあって、それを有り難いものに取り戻すのに、やはり、しばらくの時間がかかると言う時に、私は思うた。なるほどこれは私の有り難いと今思うておったのはほんなもんじゃないなあということなんです。ほんなもんにそんな事があるはずがない。我屑の子の自覚である。
我はもう神様なのだ。いうならお道の信心で言うなら生神金光大神の境地と同じなのだ。皆がそうなんだ。そういう素質を持っておるけれども、ね、私はそれではない。目指す所はそれなんだけれども、そういう時にほんなもんじゃないんだなと。だから私はお道の信心、生神への、生神への道と言うのはそういう道だと。真の道というのは、そういう道だと思うんです。
事に当たった時に自分がイライラする。事に当たった時に腹が立つ。ね。事に当たった時に今まで有り難かったそれが一遍に消えてしまう。そういう時に、ほんなもんじゃないなと次のほんなものに向かって進んで行くという信心。そういう信心を真の道と言い、そういう信心を真の道へ真の道へと進んで行く信心であり、生神へ向かって行くところの生神の道というのはそういう道だというふうに、私は感じておりますが、皆さんもそういう、私は信心の進め方をなさらなければです。世の難儀から脱却して行く腹があるということはできないとこう思うのです。
昨晩の御理解の中に、どうでも椛目に、もうほんと言うたらお道の信心の信奉者全部がと言いたいんだけれど、それはもうできんならせめて、椛目の御神縁を頂いておるもう全ての人が、億万長者のいわゆる長者の徳をいよいよ備えなければならない。
そんなあなた方がです、ね、そのいわば長者の徳を子供に譲るとか、その長者の徳を持ってです、(運用営業するとか、?)ね、いつも極楽に浸っておるようなおかげを頂く事の為ではなくてです、もっともっと違う意味合いにおいてです。どうでも私ども、なるほどお道の信心をさして頂けば、億万長者の徳が備わるんだと。億万長者としてのおかげが受けられるんだと、というものをです、私は、いわば難儀な氏子の人達の為にです、見せて創っていかなければならない。そういう手本を示していかなければならん。
神様の願いというものがです、ほんとに成就する事の為に、ね、私の為ではなくて神様の御為に、私どもが儲け?なければならないということである。ね。億万長者になってお商売を立てて、毎日百味の御食のようなものを頂いて、景気にまかれるということが夢であったり願いであったり、その為に億万長者になるというていったような事ではつまらん。
とにかくなら、億万長者になってから御用がどんどんできるごとならなん。神様の御用がどんどん、さあそれは有り難いけれども、御用もできるごとなる事の為の億万長者、そんな安っぽいもんではない、お道の信心は。ね。私どもがそれを頂いて来た。商売して言われるほど大繁盛のおかげを頂かんならん。そしてから、ほんとにどんどん御用ができるごとならなならん。
(お広前の方でも ? )ならんならんと私ども教えられて来た。だから私ども商売さして頂く者そういう願いを持ってしたけれども、それじゃぁおかげを頂かなかった。私自身が。だからそういうものではない。もっと大きな所に観点を置かなければならん。
私昨日、この頃、昼から私休ませて頂くんです。風邪で具合が悪い。ですからいつも御祈念は、夜にいたしております。それから布団の中に入って、できるだけ眠らんようにしてるけれども、横になっておりますから、こううつらうつらいたします。ふとしますと神様が、ある場合は囁きかけて下さって、ある場合は御神夢をもって様々な事を教えて下さる。
その中にです、私の御神夢とも御心眼ともつかわすその中に、頂きます事が、あの相撲にみょうぶだにと言う相撲がおります。私は相撲の事はよく知りませんけれども、そのみょうぶだにが私のひいきなんです。私のファン。みょうぶだにファンです私。私が見るといつも勝っておるそれから、ほんなことそれこそ、みょうぶだにとはちっとは私はほんと、お相撲の(?)でしょうほんと。
ほんとです。まあ私ども、相撲とかめったに見ることはないですけれどもそげん。そのみょうぶだにがです。こんなに小さいんです。そしてあの人は痩せてるでしょうが、そして、こうやって土俵の上に立っている姿なんです。その横に、そのやっぱり背と変わらん今度は大きな豚です。
もうそれこそ風船ば膨らかしたごとつやつやしとるです。こんなに大きな豚がですね。こうやって止められてですね、そのみょうぶだににこうやって押しのけるごとしてから通りましてですもんね。皆さんどういう事だと思うですか。私はそれを頂いてから、今申しております。お互いが億万長者の、いわゆる長者の徳を受けなければならん。神様に対して相済まんということです。ね。
私はそれを、ここでは豚のお知らせをまあ汚い物のと言うような意味で頂くんです。まあいうなら信心のない者、それこそ儲けさえすりゃよか。自分が立身出世さえすりゃよか。世の中何もしよらん。信心もせんとにどうしてあんな分限者になるじゃろうか。信心しよってもどうしてあげな、それこそ儲けないじゃろうか。そげな人の長者を叩き落とすような危なか事してからでもやはり儲け出しておる人があるのです。
そういうような事が平然として今の世の中にはまかり通っておる時代なのです。ね。そういう例えば、こういうふうにです、豚が退かんごと、豚の方がつやがようなってから、風船球を膨らかしたごたるふうに、腫れたように肥えてですたい。ほんとにいわゆる立派などっかに居てる旦那様と言うような格好で、いわばこの世の中を、いわばまかり通っておるということ。ね。
こらもう大きな車が来るということにおいてもそうなんです。ね。アメリカなんかはそうだと思うです。大きな豚のようなものだと思うです。ね。そういうようなです、言う事がです、紳士の言う事として通っとるんです。豚の言う事が、そういう汚い者の言う事がです。そんなら神様のです、いわば全知全能の神とその、生長の家の人あげたけども私は、お道の信心はそんなもんじゃない。天地の親神様という方は。
もうどこまでもあいよかけよ。氏子が助かって下さらなければ助かる事のできられない神様、というほどにいうなら弱い神様。けれども私どもその気になってです、ね、おかげを頂かせてもらえば、どのような働きでもおできになる神様。ね。「おかげと言うなら氏子が現してくれんか」と言うのであるから、私どもが信じて疑わない神様を、真実の力と言う力持ちをです、世の中にどのくらい天地の親神様は求め給うておられるか分からないということなのです。
いわゆる長者の徳を持った人達をです、どのくらい神様が求めておられるか分からん。豚からです、いわばこうやってその、押しやるようにしてから豚がまかり通っておる世の中からです。力持ちがです。ね。その豚を跳ね除けてから通るような時代が来なければ、本当の神を、栄光あるところの全世界の真の平和と言ったようなものは望めない。
大きな事を言うようですけれどもです、そういうような意味合いにおいてでも、私どもが力を受けなければならない。それはどういう力かと言うと神を信じる力なのである。その信ずる力がです、どうして付くかというということから、いつも私どもは事に当たるごとに直面した場合です。ほんとに「私の信心はほんなもんじゃないんだな」と。ね。
自分の信心は有り難い有り難いと言うておるけれども、ほんなもんじゃないんだなと分からして頂いて、ほんなものに向かって進まして頂くところにです、神様はもうおかげを下さっておるというのがお道の信心なんです。ここまで来なければおかげはやらんと仰るのじゃなくて、この進もうとする願い意欲に神様はもう応えておかげを下さっておるのである。
そういう意味合いでお互いがです。ただ御取次を頂いて助かっておりますというような助かりの程度からです。ね。真実私自身が助かる事の為に、精進しなければならないということを思わせて頂くでしょうが。
私どもの隣近所を思てごらんなさい。ね。豚のように肥えた人達がです。家族がです。ね。それが真のほんとの事のようにしてからまかり通っておるでしょうが。
(今でこそ信心のある者も同じ事で?)信心のある者でも、やはり「俺の信心がほんなこっちゃごたるから」こうやってです、まかり通っておる。と言うて、んなら実際のおかげも現しきらんでおるような事でです、これがいつまでもそういう信心ではです。真の道を分かる事もできまい。「真の道におりながら、真の道を踏まぬこと」と言う神様の嘆きもまた、そういうことになって来るわけなんです。
椛目でご信心を頂く者はほんとにです。真の道を頂くのであるから、その真の道をお互いが進ませて頂こうと。んなら真の道とはどういう道なのか。ということをいつも心の底に頂いて、真の道の追求をして行かなければならん。
先日、東本願寺の建築の、様子を写した写真、今日見せて頂いとったら、その中に、明治天皇がお書き下げになったと言う額を、本願寺に送ってある額が出ておりました。それには、「見真」と書いてある。真を見ると書いてある。もう実に達筆で見事な字です。だいたい「見真」とはどのような事だろうかと思うた。
昨日私は、そのお書物見せて頂きよりましたら、その「見真」ということがついておった。それはどういうような事かと言うと、迷いを払うということなんだ。迷いを払うところに真と言う、真の自分というものがある。ですから、いうならば椛目は、いわゆる「見真道場」にならなければならいということなんです。自分の、いわゆる真実の自分というものを見極めさせて頂く事の為の道場なのだ。
そして、真実の自分というものが分かれば分かるほど、相済まん私。いわば生長の家の生き方とは全然反対なのだけれども、生長の家の信心は分かった途端に「はあ、自分は神の子であった」と言うてもう、ほんなもんであるというふうに悟るらしいんです。金光様の信心はそれとは反対なんです。
いわゆるそういう反対の事を言う信心、宗教はほんなもんじゃないとこう、頭から叩いておりますけれども、それは先ほどから申しますようにね。ほんなもんじゃないから、私はこげん苦労せんならんのだ。仕方のない。そしてそこの中に、ニヤニヤ笑てる喜びだとそれを間違えておるような信心は、ほら生長の家で言うておるそれと、ほんとなんです。
ところが本当にそういうものがありはしないかということですね。そんなもんじゃあっちゃならん。億万長者の、なるほどこの調子で行きゃ徳が受けられるんならと言うようにです。億万長者的な心の豊かさ、またそれに伴なうところのおかげというものが、着々として築かれて行きよるところの、楽しみというものが伴なわなければならんのだ。ね。
椛目ではです。ほんとに信心の稽古はどこに焦点を置くかと言うと、真の自分をほんとに見極めるということ。そして、ほんとの事が分かった自分というものを、ほんとのものをほんとなものへと、私は建立して行くお育てを頂く事に精進さしてもらう。事に当たって自分の心の中に、すぐ迷いが起こる。汚い心が起こる。腹が立つ。ね。
様々なそういうような心の時にです。いよいよ「まあだほんなもんじゃなかな」とそれを打ち払うただけじゃいけん、それを打ち払わして頂く元をです、追求しておかげを頂いていかなければならんということ。
・・?形の上に現れてなければならん。というほどの間違いのない答えが出てくる信心お道の信心は。ね、そこんところを私は皆さんの信心でいっぺん体得されて、この道をまっすぐこの調子でまっすぐに進んでいけば真の道をいよいよその奥がへ進んでいくことが出来るのだ。
信心とはわが心が神に向かうて進んでいくのだ。いやその生神の境地というか、生神そのものの本質は、そうというものはお互いの心の中にあるのだけれども私どもの心の中にあるところの我情我欲がそれをおいかぶせておる。それを払うことに一生懸命になることなんだ。
それが生神の道であり、私どもは生神さんでんならんでよか、もうこん借金払いどんできてからもうぼちぼち・・?ができりゃええ、といったような小さなおかげからですね、本気で長者の徳を受けさして頂く、受けなければいわば相すまんということ、自分の周囲にです、ほんとに肥えた豚が、ね、それがいかにもほんとのことのようにしてまかり通っているというようなことをです、粉砕するだけのです、いわば・・?ではないけれども、こんなにちいさい・・・?、ではなくてです、堂々たる私は・・・?の力を受けさせてもろうて、そういう例えばものが本当のものじゃないということを粉砕してそれを押し分けて通れれるだけの、なるほど信心させて頂かなければ真実の幸せというのは頂けんのだ、信心によってから生まれてくるところの、ね、長者の・・・・・・?ないことをです、世の中の少しの人にでもそれを示していけるだけのおかげを銘々が頂かねばならんと思うのでございます。どうぞ